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伊丹は清酒発祥の地

山中鹿介の子が清酒醸造法を開発

伊丹市鴻池6丁目14にある市指定文化財「鴻池稲荷祠碑」(江戸時代後期)には、慶長5年(1600)、山中新六幸元がこの地で初めて双白澄酒(もろはくすみざけ=清酒)を造り、大いに売ったという趣旨の文章(漢文)が刻まれています。それまでの濁り酒(どぶろく)から清酒を大量に醸造する技術を開発したということであり、いわば日本酒の産業革命でした。伊丹市は、これをもって「清酒発祥の地」を標榜しています。

山中新六幸元は、戦国時代から安土桃山時代にかけて勇名を馳せた”山陰の麒麟児”山中鹿介(しかのすけ)の長男。摂津国鴻池村にいた大叔父を頼って落ち延びたあと、武士の身分を捨て醸造家に転身、江戸に清酒を出荷して財を成したと言われています。その子孫は大阪に出て豪商・鴻池家に発展しました。

江戸で伊丹酒はうまい酒の代名詞

濁り酒から清酒を作り出す技術は、すでに16世紀の大和国(奈良)の寺院で開発されていたと言われますが、鴻池をはじめとする摂津国の猪名川上流の村々では、その技術を改良し、清酒を効率的に大量生産するようになりました。

江戸幕府による酒造業への統制は厳しく、多くの酒造産地が衰退・消滅しましたが、有岡城の城下町だった伊丹は寛文6年(1666)から領主となった近衛家による酒造業の保護育成と品質の良さから生き残りに成功、日本一の酒造産地に発展します。

「伊丹は日本上酒の始めとも言うべし」。寛政11年(1799)に大阪で発行された「日本山海名産図会」はこのように記述し、全5巻のうち1巻すべてを伊丹の酒造の紹介に充てています。 高品質な伊丹の酒は、江戸で「丹醸(たんじょう)」と呼ばれ、うまい酒の代名詞になっていました。銘酒番付でも上位を占め、将軍家の「御膳酒」となった銘柄もありました。

俳諧などの文化が花開く

記録によると、正徳5年(1715)、伊丹には72人の酒造家がおり、約6万石(1,080万リットル)の清酒を生産。最盛期の文化元年(1804)には、酒造高は約1,999万リットルに上りました。伊丹郷町は、その形から金嚢(きんのう)に見立てられるほどの財力を誇りました。

富を手に入れた酒造家たちの間では、和歌、俳諧、書道、絵画、茶道、華道、囲碁などの諸芸が流行。井原西鶴、頼山陽といった文人墨客も盛んに訪れ、中には京の俳諧師、池田宗旦や飛騨の名工、谷口与鹿など、伊丹の酒を愛するあまり伊丹に住み着いて活動する人もいました。俳諧は特に盛んで、伊丹俳壇から芭蕉と並び称される俳人、上島鬼貫(うえしまおにつら)を輩出しました。酒造家の家に生まれた国文学者、岡田利兵衞氏(元伊丹町長・市長)の収集した俳諧資料を所蔵する柿衞(かきもり)文庫(伊丹市宮ノ前2)は、日本3大俳諧コレクションの一つとされ、俳諧文化の伝統を今に伝えています。(写真は柿衞文庫所蔵の真筆資料。左が芭蕉筆「ふる池や蛙飛込水のおと」、右が鬼貫筆「にょっぽりと秋の空なる富士の山」)

 

 

清酒発祥の地記念碑、マスコットも

隆盛を極めた伊丹の酒造業は、江戸後期になると、海に面していて海運に適し宮水の発見で品質が向上した灘に江戸での販売シェアを奪われ始め、幕末から明治にかけて大きく衰退。「剣菱」「男山」「松竹梅」などの有名な銘柄も他の産地に移転・買収され、現在、伊丹の醸造元は「白雪」の小西酒造、「老松」の伊丹老松酒造の2社となっています。

しかし、伊丹の酒造業が一時は日本一の生産地であったこと、そして今もその伝統の味を守り続ける蔵元があることは伊丹の誇りです。伊丹市鴻池では平成12年(2000)、住民有志によって「清酒発祥の地」記念碑(鴻池6丁目8)が建立されました。平成27年(2015)には、清酒発祥の地マスコット「たるまる」も誕生、地元の祭りや清酒イベントを盛り上げています。

「清酒発祥の地」記念碑

「清酒発祥の地」記念碑

乾杯は日本酒で

「清酒発祥の地」を標榜する伊丹市は、平成25年(2013)10月1日、「清酒普及促進条例」を施行し、清酒による乾杯の習慣の普及に努めています。また本市同様、「清酒発祥の地」を標榜する奈良市、また「日本酒発祥の地」を標榜する島根県出雲市とイベントを共催するなどして日本酒文化の魅力を発信する活動を続けています。

地元の日本酒で乾杯する「秋の宮前まつり」参加者たち

 

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