戦国武将、荒木村重に扮した伊丹市マスコットです
たみまるは、渡り鳥が飛来する都会のオアシス、昆陽池(こやいけ)のマガモをモチーフにした伊丹市マスコットキャラクターです。当ホームページでは、烏帽子(えぼし)をかぶり陣羽織(じんばおり)を羽織って戦国武将の荒木村重に扮しています。
荒木村重(1535~1586)は、難攻不落で知られた有岡城(伊丹城)の城主にして摂津37万石の国主でした。性格は豪放。織田信長に重用されますが、天正6年(1578)10月、突如、反旗を翻しました。織田方の大軍に攻められ10カ月後に落城、妻ら一族郎党が惨殺される悲劇に見舞われながら、自らは落ち延び、信長の死後、利休十哲の一人に称せられるほどの茶人として活躍するという数奇な運命をたどった人物です。
「村重が饅頭を喰らう」の錦絵(部分)=歌川国芳画
村重の悪人イメージ流布は勝者側によるもの
村重は勝者側によって「裏切者」「卑怯者」といった烙印を押され、悪人のイメージが歴史に定着してしまっています。しかし、近年の研究書から浮かび上がる村重のイメージは、その真逆です。実は人命を尊重する人物であり、茶を愛する文化人でもありました。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(平成26年)でも描かれていたように、黒田官兵衛が謀反をやめるよう説得に来た際、官兵衛の主君・小寺政職から殺害を依頼されていたのに村重は彼を殺さず牢に入れて保護していました。官兵衛はこれに恩義を感じ、村重の子孫を黒田藩に召し抱えています。
JR伊丹駅前にある有岡城石垣(復元)。黒田官兵衛の幽閉場所は不明です
民衆は村重を支持、城下町は清酒のまちとして発展
民衆もこんな村重を支持していました。信長方の苛烈な支配を嫌い、村重軍と一緒に戦ったからこそ有岡城は10カ月も持ちこたえました。籠城中に城を抜け出して、嫡子のいる尼崎城に行ったのも、危機に瀕した尼崎城を立て直すとともに毛利の援軍を要請するためであり、自分だけ助かりたいために逃げたのであれば、尼崎から花隈(熊)城に移ってからもさらに4カ月にもわたり信長軍と戦った理由が説明できません。摂津に生まれ育った村重は、他国からやって来て出世のためならどんな無慈悲な行為もいとわない信長の家臣たちとは、立場やものの考え方が異なっていたのです。無抵抗の女性や子どもも含め、村重の一族郎党が惨殺されたのは、村重のせいというより、信長の残忍さを物語るものと言うことができます。
有岡城が難攻不落だったのは、城下町をまるごと堀と土塁で囲んで要塞化していた点にありました=惣構(そうがまえ)の城。落城後、この城下町「伊丹郷町(ごうちょう)」は商工業都市として再生、江戸積み酒造業の一大拠点へと変貌を遂げます。一時は日本一の生産量を誇り、その豊かな経済力を背景に、茶道や華道、俳諧などの豊かな文化が花開きました。
村重の子、又兵衛は浮世絵の祖
村重の子、又兵衛は信長方の追っ手を逃れて生き延び、母方の岩佐姓を名乗って京や福井、江戸で絵師として活躍。躍動感あふれる独創的な画風は、浮世絵の祖とも言われています。
観光物産ギャラリーでは、村重・又兵衛コーナーを開設。父子に関する研究書や資料などを展示・販売しているほか、村重をモチーフにしたMURAどの缶バッジや又兵衛をモチーフにしたまたべぇ缶バッジも用意しています。ぜひ足をお運びください。
豊富な資料を駆使して村重の実像に迫る、天野忠幸著「荒木村重」
MURAどの缶バッジ
またべぇ缶バッジ